東鳴子温泉に引きこもる

 夏に仕事の繁忙期があって、毎日自宅から片道1時間半かけて通勤しつつ、定時後もバリバリ残業をこなすような生活がしばらく続いて、立て込んでいた仕事がひと区切りついたころ、どこか遠いところでぼーっと過ごそうと思い仙台空港行きのチケットを取った。10月初旬のことだった。
  西日本で生まれ育った人間の「遠くへ行きたい」という欲求は、しばしば東北方面へ向かうことが知られている。また、ちょうど漫画家のつげ義春の旅行エッセイを読んでいて、東北地方の温泉地に興味を持っていたというのもある。
 蒸発という言葉が似合うつげの衝動的で刹那的な旅と放浪の記録を読むと、「どこか行くか」と思い立ったその日に何も考えずふらっと旅に出ることができた学生時代を思い出す。現代日本の標準的なサラリーマンにそのような奔放な振る舞いは難しく、今では事前にしっかり有給休暇を申請して金土日の2泊3日という社会の歯車スタイルで毎回やっていっている。旅行としては窮屈なものになった一方、鄙びた海辺の港町や山村の温泉地など、事前に宿を予約しなければ足が伸びづらいところにもよく行くようになった。そう考えると今のスタイルも悪くはない。


  中部国際空港から飛び立った飛行機は約1時間で仙台空港に到着した。飛行機に乗ると、日本列島の超巨大なジオラマが眼下をゆっくりと動いているのをぼんやり見ているうちに、まるでワープのようにいつの間にか目的地に着いているので、いつも現実感がなく不思議な気持ちになる。空港直結のターミナル駅から仙台駅へ向かう列車が出ていた。車内は思いのほか空いていた。隣のボックス席で大学生らしき4人組がこれからの旅程について話し合っていた。向かいに座った30代くらいの女性は何をするでもなくぼんやりと窓の外を眺めていた。空は透き通るほどの快晴だった。初秋の仙台は思っていたよりふた回りくらい暑くて、僕は羽織っていた厚めのジャケットを脱いでリュックに押し込んだ。
 
  東鳴子温泉は、仙台駅から電車とバスを乗り継いで2時間ほど行ったところにあった。ICカードの使えない古い改札を抜けると、こぢんまりとした温泉街の町並みが目に入った。温泉街といっても、長野の渋温泉や山形の銀山温泉のような豪奢な旅館が立ち並ぶフォトジェニックな風景は一切なく、むしろごく普通の鄙びた山村の所々に小さな湯治宿が点在しているといった様子で、その飾り気のなさがかえって居心地の良さを感じさせた。駅前に最近建てられたと思しき大きなロータリーと町役場があって、その真新しさが周囲の古びた町並みと対比されて印象的だった。
  予約していた宿は駅から歩いて5分くらいのところにあった。建て付けの悪い引き戸を開けると、中は薄暗く人の気配もない。玄関から声をかけると、しばらくして帳場から宿の主人らしき60代くらいの男性が顔を出した。「自炊部に1泊、旅籠部に1泊ですね」主人は台帳をめくって僕の名前を確認すると、帳場を出て奥へと歩き始めた。「建物を案内しますので、ついてきてください」

 

 

 多くの湯治宿と同様に、この旅館の客室は旅籠部と自炊部に分かれていた。一般に旅館の部屋と聞いて思い浮かべるのは旅籠部の方で、自炊部は療養のため数日、あるいは数週間にわたって逗留するような湯治客向けの客室だ。旅籠部に比べて格安で宿泊できる一方、食事は付かない素泊まりの形式なので、湯治客は食材を持ち込んで、備え付けの台所で自分で食事を作る。かつては日本各地に存在したこの湯治文化も、今では東北地方を除いてあまり見られなくなってしまった。
 主人の後に着いて建物の中を進む。増改築を繰り返したのであろう館内は思っていたよりも広く、老主人ひとりで管理するのは大変なように思われた。実際、1階の談話室から別館へ向かう通路には立ち入り禁止の札が張られ、自炊部の客室もいくつかは物置部屋として使われているようだった。通路の窓から覗くと、破れた網戸越しに乱雑に積みあがった布団の山が見えた。5年後や10年後この旅館はどうなっているのだろうかと思う。以前伊賀で築100年の旅館に宿泊したことがあるけれど、そこは3代目の若い夫婦が切り盛りしていて、建物の造りは古いながらも隅々まで管理と清掃が行き届き、館内には確かな活気と温かみがあった。今思えば、あれはかなり幸運なケースだったのだろう。伊賀の女将も古くから営業していた近辺の老舗旅館は軒並み閉業してしまったと嘆いていた。経営が上手くいっていても、後継者が見つからず閉業に追いやられるケースも多いそうだ。近年の統計を見ても、ホテルや簡易宿所が数を伸ばす中、旅館だけが毎年数%ずつ減少し続けている。旅館業への逆風厳しい昨今、願わくば末永く営業してほしいと無責任にも思ってしまうが、一旅行者としては、たまに立ち寄ってお金を落とすくらいしかできることはない。

 

 案内された自炊部の部屋は6畳一間の和室だった。畳はいびつにへこみ、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。窓のサッシは真っ黒に汚れ、蛇口をひねっても濁った水しか出てこない。横になって雨風をしのぐこと以外何も求められていない空間。ここまでのボロ宿はそうそうお目にかかったことがない。かび臭い布団を引っ張り出して横になると、いよいよ自分のいる空間が令和の世に存在しているとは思えず、面白い気分になってきた。
 ボロくて寂れた宿に好んで宿泊したつげ義春は、その理由について著書『貧困旅行記』でこう語っている。

 

侘しい部屋でセンベイ蒲団に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。


 そしてこの「安らぎ」は、自分を零落者に擬すことで普段の自分を否定し、自分にまとわりつく「世の中の関係からはずれる」ことで生じるのだという。
 僕の好きな青春18きっぷのコピーに、こういうのがある。

 

この街とヒミツをつくる。(平成4年冬)

 

 コピーは次のように続く。

 

旅先では、自分でも思いがけないことをしたくなったり、してみたり。この街だけが、そんな私を目撃する。しっかり口止めしてから、次の街へ進もうね。


 一人で遠く離れた駅に降り立つと、もうその街で僕を知っている人は誰もいない。後はスマホの電源を落とせば、日々僕を取り囲むあらゆる関係のくびきから束の間解放され、この街にいる間だけ僕は何者にもなれる。旅の魅力は、そういうインスタントな非日常の獲得にある。
 また、旅がもたらす日常からの遊離は一時的であるという点が重要だ。日々の生活は退屈で単調な「ケ」の場であると同時に、心落ち着く居場所でもある。たいていの人は数日から数週間の旅で適度な非日常感を満喫してそれぞれの日常に帰っていく。
 しかし、たまに旅の魅力に取りつかれたまま帰ってこなくなる人もいる。タイやカンボジアなど物価の安い国で金が尽きるまで生活し続ける人たちのことを「外こもり」というらしい。自身を取り巻く現実や社会からの逃避という点で、確かに長期旅行は引きこもりと似ている。しかし当然ながら、滞在が続くといずれ現地の社会や人間関係に組み込まれる。それにも耐えられない人間は、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公のように、人知れず荒野に消えていくしかないのかもしれない。


 部屋に荷物を置いて散策に出かけた。東鳴子温泉は小さな温泉地だった。宮城県の北西部、北上川の支流のひとつである江合川と鳴子火山群に南北を挟まれた細長い集落で、端から端までゆっくり歩いて20分とかからない。この中に十数の温泉旅館が点在しているそうだ。駅前の土産屋では、地元の住人らしき老夫婦が店員の女性と談笑していた。カラフルな縞模様の庇が時代を感じさせた。奥の方に菓子店があり、ダクトから盛んに湯気が立ち昇っていた。ここで蒸したまんじゅうを土産屋の方で売っているのだろう。飯屋がまったく見当たらず、いろいろ探し回ったところ、民家と見まがうほど目立たない定食屋が町の西の端に一軒、黄色い屋根にでかでかと店名が書かれた小さな焼肉屋が東の端に一軒あるのを見つけた。それ以外の飲食店は東鳴子にはないようだった。なんだかRPGの序盤に出てくるようなシンプルなマップだなと思った。
 定食屋と焼肉屋の口コミを食べログで検索してみると、どちらもかなり高評価だった。しかしこういう母数が極端に少ないエリアの口コミはあてになるのだろうか。昔Google Mapで孤島巡りをしていたとき、硫黄島の島内唯一の食堂にレビューがあって「ここで文句を言って食べないなら死ぬしかない。おいしいです!」と書かれていたのを思い出した。
 東鳴子温泉の周辺にはほかに鳴子温泉中山平温泉鬼首温泉川渡温泉という4つの温泉があって、これら5湯を総称して鳴子温泉郷と呼ばれている。東鳴子温泉は5湯の中で最も小さな温泉地ということだった。しかし旅先で何もせずに過ごすには、これくらい小さくて何もない方がかえってありがたい。貧乏性の人間は、旅先に観光スポットがあると、とりあえず一通り周ってみないと気が済まないものだ。街歩きは2時間ほどで終わった。あとは宿でごろごろするだけ。ここは引きこもるのにうってつけの場所だ。

 

 

 昼間に調べた焼肉屋で夕食をとり(とても美味しかった)、暗い夜道をほろ酔いで歩いて宿に戻ると、明かりのほとんどない館内はその異様さをいやましに増し、ほとんど本物の廃墟同然といった雰囲気だった。部屋に戻り、洗面用具と着替えを持って風呂場に向かった。ほかの宿泊客も何人かいるはずだったが、「在室」の赤い札のかかった部屋からは物音ひとつ聞こえなかった。床の軋みがひときわ大きく聞こえた。宿には4つの異なる源泉から湯を引いた5つの風呂がある。僕が宿泊したときは男性客しかいなかったので、女湯の方にも時間帯を気にせずに入ることができた。男湯と女湯はどちらも簡素な造りの離れにあり、足元に気を付けながら、蛍光灯の薄明かりを頼りに土間の廊下を渡った。虫の音が大きくなった。床面に埋め込まれた玉砂利が蛍光灯を反射して鈍く光っていた。
 狭い脱衣所で服を脱ぎ、まずは男湯に入った。8畳ほどのコンパクトな浴場で、壁一面に窓が設けられていた。昼間は開放的に見えるのだろうが、夜になるとかえって黒々とした威圧感があった。ぬるめのお湯は少し濁っていて、硫黄とゴムの入り混じったような臭いがした。ひょうたんのような形をした浴槽に身体を預ける。ちょろちょろとお湯が注ぎ込む音、虫の音、草木が風に吹かれてざわざわと揺れる音が聞こえる。湯温も絶妙で、このままずっと入っていたくなるほど心地よかった。昼間は日帰りの入浴客もいてけっこう混雑するらしく、こうやって温泉を静かに独り占めすることができるのは宿泊客の特権といえた。

 

 

 次の日、朝早く起きた僕は荷物を持って自炊部の部屋を出た。廊下の白い壁に蝙蝠がしがみついて眠っていた。帳場に行くと主人が出てきて、「用意はできてますので、いつでもどうぞ」と旅籠部の部屋の鍵を渡してくれた。側の階段を登って部屋に向かう。こちらも土壁に所々ひびが入って相当年季が入っているようだったが、湯治部と違って格子戸つきの二重扉や壁をくりぬいた意匠など旅館らしい装飾が見られた。くたびれた畳に腰を下ろして部屋を見回すと、長年使いこまれて艶の出た机やいかにも昭和といったフォルムのヒーターと扇風機が目に入って、何とも言えず落ち着いた気分になった。そのまま一日中部屋でごろごろする予定だったけれど、昨日焼肉屋の常連客に教えてもらった温泉に入りたくなったので再び町に出た。
 歩きながら改めて町を眺めると、人の管理の及ばなくなった建物がよく見られた。宿の向かいの木造の平屋は、屋根が波打って建物全体が斜めにひしゃげていた。町の真ん中あたりにある通り沿いの写真館は、窓が割れ、入り口には板が打ち付けてあった。都市部や市街地ではこういう建物は大抵しばらくしたら取り壊されて新しく建て替えられるけれど、人も金もない田舎ではそのような新陳代謝のサイクルは低い。特に大きな温泉地では、バブル崩壊によって客足が遠のき、撤去費用も払えなくなった大型の宿泊施設が放置され廃墟化することがある。代表的な例では栃木の鬼怒川温泉なんかがそうだ。巨大な廃墟や廃屋が墓標のように立ち並ぶ街を歩くとこちらまで寂しくなる。それはそれで今度は廃墟マニアとかに需要があるのだろうが、僕は生きている街の方が好きだ。生きている街は、人が血液のように内部をめぐり、絶えず新陳代謝を繰り返している。化石のような佇まいの古い宿だって、人が生活しているうちは、調度品も変わるだろうし、ポスターだって数年おきに張り替えられる。そうやって短いスパンで色々な情報が積み上げられていくのを見るのが好きだ。もちろん廃墟だってずっと変わらない訳ではなくて、すこしずつ時間をかけて自然と同化していく。けれどそれは、自然のタイムスケールの中で、自然の法則によってもたらされる変化だ。生きている街は、つねにそこで暮らす人の都合によってその姿を変えていく。そこに垣間見える様々な人の意思とか、生活とか、そういうところに面白さを感じているのかもしれない。

 

 

 川の向かいの温泉に入ったあと、貧乏性を発揮してせっかくだからとさらに2軒ほどめぐったところ、案の定のぼせて気持ち悪くなってしまい、その後はずっと宿で横になりながら本を読んで過ごした。10月初旬は温泉めぐりには暑すぎる……。旅行記をいくつかキンドルに入れて持ってきていたのだが、仙台駅前の本屋でたまたま読みたかったゼーバルトの『土星の環』を見かけたので、こちらを先に読むことにした。
 副題に「イギリス行脚」と付いている通り、『土星の環』はゼーバルトに限りなく似ている語り手「私」が、イギリス南東部サフォーク州のひっそりとした町々を歩いて旅した旅行記だ。「私」によって描かれるのはゆっくりと衰微していく90年代イギリスの風景で、そのドライで少し鬱とした筆致は今回の旅行のテンションにいくらかリンクするものがある気がした。
 作中、かつて栄華を極めた実業家モートン・ピートー卿の手になるサマレイトンの邸宅を見学した「私」は、色褪せたビロードのカーテン、壁にかかったアフリカの仮面、玄関ホールの白熊のはく製を眺めつつ、「いま、ここ」から滑り出て知識と想像力のおもむくまま筆を走らせる。

 

まったくのところ、見学客に開放されたサマレイトン屋敷の部屋部屋を巡っていると、サフォーク州の田舎屋敷にいるのか、それともはるか遠くの、北極の海べりか、はたまた暗黒大陸の奥地か、いずれこの世ならぬ場所にいるのか、おぼつかなくなってくるのだ。どの時代、どの世紀にいるのかもおいそれとはいえない。いくつもの時代は打ち重なり、併存しているからだ。

 

 ゼーバルトには、その豊富な歴史的・地理的知識から目の前の情景の「歴史の地層」のようなものが見えていたのだろう。とりとめのない思考の漂流に付き合っているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。


 起きたらちょうど夕飯時だったので1階の食堂に降りた。今日は僕のほかに宿泊客が2人いて、皆食堂で夕飯を食べることになっていた。個人的には部屋でゆっくり食べたかったけれど、老主人の配膳の負担を考えると仕方なかろうと思われた。食堂ののれんをくぐると、30代くらいの女性と40代くらいの男性が既に席について食事を始めていた。どちらも一人客のようだった。僕が2人の後ろを通って手狭なテーブルの一番奥に座ると、主人が鍋物の着火剤に火をつけてくれた。料理は覚えているだけでも、鮎の塩焼き、茄子とさつまいもの天ぷら、マグロと鯛の刺身、ちゃんこ鍋、ホタテの焼き物と盛りだくさんの品揃えだった。僕たち3人は感染症予防のためアクリルの衝立を挟んで横一列に座り、皆同じ方向を向いて一言もしゃべらず黙々と食事を口に運んだ。テレビはなく、箸と食器がカチャカチャと触れ合う音だけが響いた。実にシュールな光景だった。松田優作が主演を務めた『家族ゲーム』という不条理映画に、家族4人と家庭教師役の松田優作の5人が狭いテーブルで横並びになって食事をとるシーンがあったが、まさにあんな感じだった。言い知れぬ緊張感があり、食事の味はあまり覚えていない。「八十八の手間がかかるから『米』なんだって」と書かれた、農林水産省のポスターが向かいの壁に貼ってあったという本当にどうでもいい記憶だけが残っている。


 翌朝、この宿の目玉である「黒湯」という温泉にまだ入っていなかったので、朝食後に少しだけ入湯した。ほかの風呂に比べて一段と大きくて天井の高い浴場だった。お湯のタイヤ臭というかアブラ臭が尋常ではなく、昨日入ったひょうたんの風呂とは比べ物にならないくらい強烈に鼻をついた。絵の具の黄と黒を混ぜたような濁った色をした浴槽に身体を浸すと、湯温が高めなのもあってすぐに全身がカッと熱くなり、成分がじわじわと身体に染み込んでくるような感触を覚えた。お湯の成分の濃さからか壁材は変色しきっており、配管の湯口部分や湯の流れ道には析出物が山のように堆積し、まるで鍾乳洞のような奇怪なオブジェを形作っていた。この浴場だけが現世から切り取られたかのような異様な空間。東鳴子温泉随一の名湯として県外のリピーターも多いというのもうなずけるインパクトだった。身体に染み付いたタイヤ臭と硫黄臭は、風呂を出た後もしばらく残り続けた。

 

 

 宿を出る前に部屋で荷物を整理していると、机の上に鳴子温泉郷のフリーペーパーがあるのを見つけた。奥付には地元のNPO法人の名前が書かれていて、ポップな題字とは裏腹に、内容は江戸時代の国学者の日記や郷土史をもとにかつての町の姿を描き出すという力の入ったものだった。とりあえずリュックに入れて宿を出て、帰りの各駅停車の車内でゆっくりと読んだ。
 鳴子町(現在は宮城県大崎市の一部)は、古代から山形県に向かう最上街道と、鬼首峠を越えて秋田県に向かう羽後街道が開かれていた。そしてそれらの街道の集合地点である「鍛冶谷澤宿」は、藩政時代に入ると交通の要衝として注目され、明治5年にはいち早く郵便局が設置、明治8年には「馬市」が開かれるようになり、町は大変な賑わいだったそうだ。明治29年には鳴子に陸軍省の「軍馬補充部鍛冶谷沢支部」が置かれる。その規模は広く、常時千数百頭の軍馬を育成、教練していたという。古くから馬産地として知られていた鳴子だが、その名声をさらに高めたのが仙台藩伊達政宗だ。慶長18年に支倉常長をローマに派遣した際、フィリピンのルソン島からアラブ馬を持ち帰らせ、鳴子で飼育されていた道産馬と交配させたのが契機とされている。
 名馬の産地として数多くの駿馬が巣立った鳴子だったが、馬産の主役がアラブ馬からサラブレッド馬に交代すると生産頭数も徐々に減少、平成18年に馬市場の閉場に至った。現在は各地に残された記念碑や馬市場跡地にその面影を残している。


 電車に揺られながら改めて時代の積層について考えた。僕は生きている街が好きだと書いた。それは本当だが、反対に自分の暮らす街があっという間に消えて、まるでそこにはかつて何もなかったかのように新しい建物が次々と林立していくというのも、それはそれで不気味な光景だ。押井守の『劇場版パトレイバー the Movie』では、再開発で消滅していく打ち捨てられた下町の風景と、その上に築き上げられる新しい東京への反逆が描かれていた。「ここじゃ過去なんてものには一文の値打ちもないのかも知れんな」と作中で語られるように、都市がスクラップ&ビルドで生まれ変わるとき、その都市自身の持つ過去の記憶は、一度物理的な意味で殺される。真新しいものばかりでできたぴかぴかの都市を眼前にして、旅行者は「いま、ここ」以外の何に目を向けられるだろうか。サマレイトン邸のない東京で、ゼーバルトは何を幻視できるだろうか。僕らが失われたものを思うことができるのは、それが失われたという記憶が失われていないときだけだ。
 社会学者の町村敬志は、都市を構造的に見ると色々な層があると言っている。歴史の層、地形の層、そこに住む人たちによってつくられる文化の層。そして現代ではインターネットのような見えない層がさらに都市全体を覆っていると。確かに、都市の・町の記憶はそこに住む人、そこを訪れる人を介して様々な種類のメディアに分散して、地層となって堆積していく。例えば鳴子町について書かれた日記や郷土史からなる文献の地層。例えば東鳴子温泉を上から写したGoogle Map、焼肉屋食べログの口コミからなるインターネットの地層。そして例えば東鳴子に住む人々自身の記憶からなる地層。それらは相補的に連なり、現実の東鳴子温泉という「いま、ここ」だけを切り取ったジオラマに、時間軸上の広がりを、ゼーバルトがサフォーク州で幻視した「歴史の地層」をもたらす。であればそのジオラマ自体も、新しいものと古いものを兼ね備えた、時間的に広がりのある街であることが望ましい。新興住宅街を眺めながらその土地の平安時代からの由緒を語られても旅行者としてはちょっと困ってしまう、というのは少し極端かもしれないが。かつてブロガーのphaが熱海に一週間暮らしたときに言った「過去のさまざまな時間がまだらに積み重なっている」という形容が、個人的にはとてもしっくりくる。そういう街が、僕が好きな街、旅したい街ということになるのかもしれない。


  概ねそういうことばかり考える旅行だった。